渋沢栄一は一流の実業家であり、経営コンサルタントであり 今でいうベンチャーキャピタリスト だった。

渋沢栄一・埼玉県深谷市血洗島出身

2020年2月23日(日)第2回歴史を学んで心を磨く会を
開催しました。

今回のテーマは渋沢栄一です。

渋沢栄一 (1840 – 1931 )
1840年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれています。
生涯に約500の企業の育成に係わり、同時に約600の社会公共事業や民間外交にも尽力。
1916年・86歳のときに『論語と算盤』を著す。「道徳経済合一説」を説く。
日本資本主義の父と言われています。

血洗島スゴイ名前の地名ですね。
平安時代、合戦があり、片手を切り落とされた人がその手を洗い、地元民がその手を葬った墓があったといわれています。
彼はもともと商売をやっている豊かな農家の出身です。
家は畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を営む豪農。
一般的な農家ではなく、商取引をしていた大規模経営の農家です。
ですから小さいころから商売には親しんでいたと思います。
幼少期から父親に算式。従兄弟の尾高惇忠から四書五経・論語・陽明学を学びました。

この従兄弟の尾高惇忠 ( おだか あつただ )は渋沢栄一のお父さんのお姉さんの息子です。


尾高惇忠 ( おだか あつただ )

尾高惇忠 おたか あつただ 1830~1901
17歳のとき、寺子屋を兼ねた尾高塾を開く
この尾高塾は「知行合一」を学則として掲げていたといいます。
知行合一とは陽明学の教えですね。
7歳から渋沢栄一は尾高塾で学んでいるのです。

「四書五経」「陽明学」を学んでいるのです。
ここで学んだ「論語」。
これが彼に決定的な影響を与えるのです。

私は「論語」で一生を貫いて見せる。と
「論語と算盤」にも記述があります。

尾高惇忠は富岡製糸場の初代場長です。
富岡製糸場 ははじめ工女の採用に大変苦労します。
そこで尾高は工女第一号に自分の長女を採用しました。
工女の教育に力を入れました。
規律正しく教育しました。

渋沢栄一もこの尾高惇忠のもとで教育を受けたのですから
しっかりとした教育を受けたと思います。

渋沢栄一は1858年19歳で結婚。尾高惇忠の妹・尾高千代と結婚します。
1861年21歳。江戸・千葉道場で剣術留学。北辰一刀流。尊王志士と交流
尊王攘夷思想に目覚めて、高崎城乗っ取り計画を立てます。
横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒そうというスゴイ計画です。

惇忠の弟、尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得により中止します。

1863年京都に出ますが、これは八月十八日の政変のあとで
勤皇派が凋落した京都においての志士活動に行き詰まっているときに
交際のあった一橋家家臣、平岡円四郎の推挙により徳川慶喜に仕えるようになります。

1866年徳川慶喜が将軍になったのをきっかけに、幕臣となり、
1867年将軍の名代としての徳川昭武の随員としてパリで行われる万国博覧会へ行きます。
帰ってきたらもうすでに慶喜は将軍でなく、静岡に謹慎となっていました。
慶喜に面会し、言われた言葉が
「これからはお前の道を行きなさい」


その後、大隈重信に説得され、大蔵省に入省。
1872年には紙幣寮の頭に就任。
大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に大蔵省を退官。
退官後第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身をおくようになります。

渋沢栄一が設立にかかわった会社
その代表的なものは
第一国立銀行
東京瓦斯
東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)
王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)
田園都市(現・東急)
秩父セメント(現・太平洋セメント)
帝国ホテル
秩父鉄道
京阪電気鉄道
東京証券取引所
麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)
サッポロビール(現・サッポロホールディングス)
東洋紡績(現・東洋紡)
大日本製糖
明治製糖
澁澤倉庫

1887年(57歳)渋沢を慕う経営者や管理職が集まる龍門社を設立。昭和初期には数千名の会員がいました。

渋沢栄一・論語と算盤
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。

正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができない。
 
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。
そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、
国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、
道理のあるところに従うつもりである。

渋沢栄一は「道理」を大切にし
国家社会の利益を考え、
さらにそれが自分のためになるかを考えました。
国家社会のためなら、己を捨てて、
道理に従う。とまで言っているのですから
「道理」をまず考えました。

備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、
「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲とも知り合い
意気投合しています。


三島中洲

三島中洲 は昌平坂学問所の儒官(総長)であった佐藤一斎からも学んだ
大正天皇の侍講(先生)でもありました。
三島中洲は大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官、二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者でもあります。

渋沢栄一も二松學舍大学の舍長にも就任しています。

山田方谷の言葉
「義を明らかにして、利を計らず」
正しい考えでことに当たれば、自ずと利益はついてくる。

渋沢栄一の考えに通ずるものがありますね。

論語と算盤の中で
徳川家康に触れられています。
「人の一生は重荷を負うて遠き道をいくがごとし。」
「己を責めて人を責めるな」
「 及ばざるは過ぎたるより勝れり」

徳川家康は「論語」を愛読していた。
だからチャンスをものにし天下を取ることができた。
徳川家康の言葉は論語の内容と共通する。

だからこそ渋沢栄一は言うのである。
社会で生きていこうとするのならばまず「論語」を熟読しなさい。

論語と算盤の中での言葉

現代の青年が今もっとも切実に必要としているのが人格を磨くこと。

一個人の利益になる仕事よりも、多くの人や社会全体の利益になる仕事をすべきだ。

成功や失敗の良しあしを議論するよりもまず誠実に努力することだ。
そうすれば公平無私なお天道様は必ずその人に幸福を授け、
運命を開いていくよう仕向けてくれる。

そう。
「言葉より誠実な努力。」
心にしみます。

渋沢栄一のとても特徴的なことは
人と会う
ということ。

人と会って対話をする「面談」を非常に重視しました。
わずかな時間でも、渋沢は人と会うことを厭いませんでした。
日本橋兜町に設けた事務所によく人を招きました。
実質的な経営を他の人に任せました。
起業時の資金集めや、部分的なアドバイスに関与しました。

たくさんの人と会い
事業と人を見て
国家と社会を考える人。

渋沢栄一は一流の実業家であり、経営コンサルタントであり
今でいう
ベンチャーキャピタリスト
だったのです。

まさに
国家と社会に尽くす人。
それが
渋沢栄一なのです。

本日の第2回歴史を学んで心を磨く会は
参加者は私一人でしたが
とても学びになるありがたい時間でした。

自分を磨く。
誠実に努力する。
国家・社会を考える。

自分に足らないものを知ることができました。

次回の歴史を学んで心を磨く会は
3月8日(日)11時~13時 マイカフェ名駅西店で開催します。
次回のテーマは吉田松陰です。

歴史を学ぶことでいろんなことを知ることができます。
ぜひ興味のある方はお越しください。

https://www.facebook.com/events/267327460917199/

2021年大河ドラマ・青天を衝(つ)け」・吉沢亮が渋沢栄一を演じるんですね。楽しみです。
河井継之助といい、渋沢栄一といい、陽明学にゆかりのある人が
映画化やドラマ化されるのが嬉しいです。

渋沢栄一の思想には陽明学も大きな影響を与えています。
それがとてもよく理解できる本でおすすめです。

渋沢栄一と陽明学 – 「日本近代化の父」の人生と経営哲学を支えた学問 – (ワニブックスPLUS新書)


現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

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