幕末。
幕府を倒し、明治政府樹立の大きな原動力となった肥前佐賀藩。
僕は高校生の時に司馬遼太郎の小説・「歳月」を読んで
その存在を知りました。
幕末の佐賀藩はたくさんの人材がいました。
「歳月」に描かれた江藤新平。
大隈重信
大木喬任
副島種臣
政治家だけでなく東芝の創業者なった田中久重も佐賀藩にゆかりがあります。
たくさんの人材の宝庫だった肥前佐賀藩。
その背景には幕末の肥前佐賀藩主・鍋島閑叟の存在があります。
当時、佐賀藩はとても厳しい教育システムがありました。
17歳で家督を継いだ鍋島閑叟(1815~1871年)
当時、財政破綻していた佐賀藩を地場産業にチカラを入れることにより
V字回復させ、とても裕福な藩に変貌させた事業家であり、また
「教育」に非常に力を入れました。
藩士は6歳で学校に入り、25歳から26歳で卒業するという制度。
卒業できない藩士は家禄の8割を召し上げられるというすさまじいモノでした。
それはもう必死で勉強しますよね。
藩校を卒業できなければ、就職もできず、
家禄を8割も召し上げられてしまうのですから。
そしてついに
幕末のころには
肥前佐賀藩は
大砲や軍艦まで製造する実力までありました。
それは産業を興すことによって得た財力と
教育に力を入れることによって育てた人材のチカラによるものです。
当時の佐賀藩では教育システムの厳しさにより、発狂者もでたそうです。
幼少のころから閑叟は
儒学者の「古賀穀堂 」(1777~1836年)から教育を受けます。
その意見書を取り入れ、
藩校「弘道館」の充実させました。
その予算は7倍にして、藩校の敷地を3倍にしました。
上級家臣から下級武士まですべての藩士は藩校への入学が義務化されました。
規定の年齢で藩士は藩校を卒業できなければ「仕事」につけませんでした。
それは「家禄」の8割が減らされることを意味します。
そこで育てた人材を投入して
物理や化学を研究させたのです。
なぜ、鍋島閑叟はこのように産業を興し、教育にチカラを入れ、
肥前佐賀藩内で軍艦や大砲まで作るところまで佐賀藩を引き上げたのか?
その原動力は何だったのか?
その原因は1808年の「フェートン号事件」です。
肥前佐賀藩は長崎警備を代々担当していました。
福岡藩と佐賀藩が交代で1年ごとに警備を担当していました。
イギリス軍艦フェートン号はオランダ船を偽装し、長崎にやってきました。
当時、オランダはナポレオン統治下にあり、イギリス侵攻の拠点となっていました。
イギリスとオランダは戦闘状態にあったのです。
イギリス軍艦 フェートン号の乗組員はオランダ商館員を人質に取り、
燃料と食料を要求しました。
このとき、長崎警備を担当していたのが肥前佐賀藩だったのです。
当時、財政が苦しく、困窮していた佐賀藩は長崎警備にも多くの兵を派遣する
余裕がなかったため、なすすべなく、イギリスの要求通り、燃料と食料を渡しました。
この事件のため、閑叟の父、藩主・鍋島斉直は謹慎処分を受けます。
佐賀藩士・儒学者の古賀穀堂はフェートン号事件を機に
佐賀藩の無力さを強烈に反省し、西洋の実力を知り
「意見書」を当時の藩主・ 鍋島斉直 に提出しますが、採用されません。
それどころか、藩主・斉直はぜいたくな暮らしを続け、佐賀藩の財政は
ますます苦しくなります。
ただ斎直はこの古賀穀堂を幼い閑叟の教育係とすることを決定します。
閑叟は古賀穀堂の思想・考え方に大きな影響を受けます。
古賀穀堂の強烈な思いと教育が、鍋島閑叟の藩政改革に大きく影響を与えました。
「このままではいけない」
フェートン号事件で目の当たりにした西洋の実力。
危機感が古賀穀堂を突き動かします。
儒学で人の道を説いても
西洋の進んだ軍事兵器を前に役に立たない。
それに匹敵する兵力がなければ、何もできない。
強烈な反省と危機感があったのです。
藩主鍋島閑叟は、藩政改革の途中で古賀穀堂は死んでしまうのですが
見事に肥前佐賀藩を豊かな藩に変え、西洋式の軍隊を作り上げました。
軍艦・大砲まで所持し、その威力は討幕の戦いで大きな威力を発揮します。
佐賀藩出身の大隈重信は
肥前佐賀藩の教育システムには批判的で、
早稲田大学の自由な気風はその反動であると考えられます。
フェートン号事件を契機に
一人の儒学者
「古賀穀堂」の強烈な危機感、思いが
藩主「鍋島閑叟」を作り上げ、肥前佐賀藩を豊かな力のある藩に変えたのです!
今の日本も幕末の肥前佐賀藩の姿に見習うべきものが多くあると思います。
大切なのは「危機感」と「行動」ですね。
あと「教育」。
コレにつきます!
自分が死んでもその思いは引き継がれ、実現される!
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