河井継之助の生涯に成功や失敗という違う次元の筋の通った生き様を感じる。

本日、2020年2月9日(月)第1回歴史を学んで心を磨く会を開催しました。
今回初めてのこの会で取り上げましたのは河井継之助です。
幕末の戦いで最も凄惨だったと言われる北越戦争を起こした人物が河井継之助です。

ただ、河井継之助は戦争を起こしたくて、起こしたのではなく
武装中立という立場を貫こうとして、その理想は叶えれず、
戦争に突入してしまいます。

司馬遼太郎の小説「峠」によって描かれています。

私も高校時代に読んで大きな影響を受けました。

今年2020年、映画化されます。
河井継之助を役所広司が
妻のおすがを松たか子が演じます。

武士の世が滅びるのを予見しながら
武士として生きた。
武装中立という志を立てましたがそれは叶えられなかった。

河井継之助の生涯。

それはどんなものだったのか?

彼は何を目指していたのか?

17歳の時、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、
藩を支える名臣になることを誓います。

高野松陰から藩校崇徳館で陽明学を教わった河井継之助は
陽明学から大きな影響を受けます。

高野松陰は佐藤一斎から陽明学を学んで
佐藤一斎の塾の塾頭を務めた人物です。

河井継之助の人生は42年。1827年~1868年
1852年江戸へ遊学
1853年 藩政の刷新を企図し長岡帰藩、が2か月で辞職。
1858年 家督を継ぐ 外様吟味役 宮路村騒動
庄屋・農民の双方を裁断・己れの非力さと体制の矛盾を嘆く
1859年 江戸へ遊学
1862年 牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰めとなり、京都所司代を辞職すると、 牧野忠恭は老中となり継之助も江戸詰めとなり、また老中も辞職します。続けての牧野忠恭の辞職で親族つながりの笠間藩主・牧野貞明が
牧野忠恭を説得する際、継之助は牧野貞明を罵倒し、公用人辞職となります。
1865年郡奉行に就任し、藩政改革を進め、
その後どんどん出世し、藩の実験を握り
1868年までに改革を進め、幕末の風雲に備えていきます。
越後長岡藩を武装中立させるべく、軍備を整え、経済を立て直していきます。

河井継之助はこの幕末の風雲の中、越後長岡藩をどうしていくか?
彼の人生はその1点が主題でありました。

司馬遼太郎の小説「峠」で描かれ、これを原作に
今年、映画化される河井継之助
越後長岡藩7万4千石の家老でありました。
越後長岡藩は実際は13万石くらいあったと言われています。
経済的に豊かでなければ軍備は整えられません。
この時期の討幕で活躍した西国雄藩・薩長土肥の各藩も経済的に豊かな藩でした。

「河井継之助は得易からざる人物である。不幸順逆途を異にしたので、賊名を負うて斃れたが、もしも今日世にあるならば、台閣にたつべき一人である。確かに一代の傑物である」

これは西郷隆盛の言葉です。

これからの日本にとって必要な人物であった河井継之助ですが
彼は戦いの中で死んでしまいます。

私はこの河井継之助を描いた司馬遼太郎の峠を
高校時代に読んで
衝撃を受けました。

陽明学を初めて知りました。
知行合一という言葉も初めて知りました。
吉原の存在を知りました。
男の生き様を知りました。

河井継之助の生涯の目的は
越後長岡藩の武装中立であった。
彼は長岡藩士として生きたのだ。

17歳の時、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、
藩を支える名臣になることを誓った継之助。

幕末の世の越後長岡藩をどう率いていくか?の1点に彼の人生の目的はありました。

「正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値ある生涯を送ることができる。」

これは新一万円札の肖像になる渋沢栄一の言葉です。
私はこの言葉が河井継之助の生涯を表現するのにとても的確な表現であると思うのです。

河井継之助にとっての正しい行為。
その行為を貫いた。
ただ運は彼に味方しなかったのだ。

河井継之助の師匠と言える人物に
山田方谷がいます。
備中松山藩7年間で藩が抱える10万両(200億円)の負債を一掃し、
同時に10万両(200億円)を蓄財するという、大胆な藩政改革を実行した
人物です。

河井継之助・藩政改革(1865年~1868年)
〇人材の登用 禄高に関係なく、実力本位で藩士を登用し、適任適所の人材配置をした
〇賄賂の禁止 慣習化していた賄賂、饗応、請託を禁止。
〇遊郭の廃止 女郎屋、芸者置屋、貸座席屋を廃止し、業者に転業の資金を貸与、娼婦には旅費を与えて家に帰した。遊郭通いで有名な継之助が自ら禁止した
〇河税の廃止 収入源だった信濃川の通行税(河)税を廃止し、自由な通行を推進することで町を活性化させた
〇町制の改革 不正の噂がある検断職の免職。町役人の人員削減、給与規定の見直し
〇藩財政の改革 家臣一同に倹約を奨励。領民には藩財政の公開と、藩主藩民が改革に取り組む証として、藩候の調度品の売却を進める
〇兵制の改革 鵜殿団十郎によるフランス式の兵制を推進した。兵学所、練兵所の設置
〇西洋式装備推進 各戸に最新のミニエー銃を配備。東洋に3門しかないガトリング砲の2門を装備
〇禄高の改正 藩士の禄高をほぼ100石に平準化し、兵の統制を容易にした。自らの禄高は120石の増減なしに据え置いた
〇学制の改革 藩校崇徳館に造士寮を設け、寄宿制により人材の育成をした
〇寄場の設置 犯罪者を罰するだけでなく、更生と職業訓練をさせる寄場を設け、放免の日には労役の積立金を与えた。寄場の最初の場長は、後の阪神電鉄創業者の外山寅太(脩造)
〇賭博の禁止 風紀の害毒の多さを説き賭博を禁止。自ら博徒をよそおい賭場に入り、通達の徹底を確認

遊郭通いが好きだった河井継之助が遊郭を廃止させた
「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」
という歌が長岡城下ではやったと言います。

長岡に河井継之助記念館があります。

そのホームページにこんな言葉が書いてあります。

現代日本は、いままで日本人が持っていた義理・人情を忘れ、
当面の私利だけを求めて右往左往している。
こうした傾向は、やがて日本の政治経済の屋台骨を揺るがしかねない。
義理とは人の道における正しい行いようである。
そこに人情の惻隠の心がなければならない。
うわべだけの改革を断行しようとしても、うまくいかないのは、
そういった義理と人情を忘れているからだ。
幕末の風雲児 河井継之助の生涯を学べば、日本の改革はできる。

河井継之助が大切にしたもの。
〇義理と人情
〇惻隠の情
とは何なのか?

義理と人情
日本の社会に固有な生活規範。
義理は一般に社会に既存している道徳や習慣であり,
人の踏み行うべき正しい道筋をいう。

惻隠の情
今まさに井戸に落ちようとしている幼児を見つけたら、誰しも思わずハッとして、ためらうことなく幼児を助けに行くだろう。
その幼児を助けたいとの一念から、とっさにする行為である。
何とかして幼児を助けてやりたいという心、人を憐れみ痛ましく思う心。

孟子は「 惻隠の情 」はすべての人が生まれながらに持っていると言っています。

河井継之助の言葉に
「民は国の本、吏は民の雇い」
たみは国のもと、りは民のやとい
という言葉があります。

河井継之助の書・ 民は国の本、吏は民の雇い

彼は長岡の人の暮らしをよくする。
長岡の民の暮らしを豊かにする!ということを目指していた。

山田方谷の言葉
「義を明らかにして、利を計らず」
正しい考えで藩政に当たれば、自ずと利益はついてくる。

これに尽きると思うのです。

長岡の風紀を一新し、新潟港の地の利を生かして、長岡藩は豊かになっていきます。

河井継之助には人間的な面もあり
日本最大の遊郭・吉原が好きでした。
江戸へ遊学中に通っていた塾で熱心に本に○、×といった記号を書き込んでいました。
吉原の遊女一覧、いわゆるガイドブックに今までお相手してもらった遊女を「この遊女は良かった」「この遊女はいまいち」と熱心に○、×といった記号を書き込み、その傾向から、次にお相手してもらう遊女を考えていたと言います。

江戸での留学中に股に大きな腫物ができて
寝起きも不自由する状態のときもありました。

吉原通いで変な病気をもらったかもしれません。

そんなときでも必死で起きて
勉学に励む継之助。

少し休んだらどうですか?という人に

人の世に処するというものは、苦しいことも嬉しいことも色々あるものだ。
その苦しいことというものに堪えなければ、
忠孝だの、節義だの、国家の経綸だのと言うた所で、
到底成し遂げられるものでない。
この苦しいことに堪えるということは、平生から練磨しておかなければ、
その場合に限ってできるものでない。
こういう腫れ物のできて苦しむのは、誠にこの自分の志の強弱を試すのによ
い時機であるから、こういうとき、学問の上に力を得たか得ないかという事を
試しているのである

腫物ができて苦しいとき
そんな時こそ勉学に励む。

この苦しさに負けているようでは
忠孝も節義もできない。
ましてや藩の政治を担うことなどできない。
苦しさに耐えることを普段から取り組む。
まさに腫物に苦しみながら勉学に励むのは
自分の志を試す好機です。
困難にあたったときこそ好機なのです。
まさに日常生活の中で心を磨く。
陽明学・事上磨錬の考えです。

そして訪れた
1868(慶応 4)年5月2日
小千谷会談

小千谷・長岡周辺地図

新政府軍軍監・岩村精一郎(24歳)
越後長岡藩家老・河井継之助(42歳)
の会談です。
新政府軍から再三打診されていた出兵や献金の求めに応じなかったことを詫びた上で、戦争は勝っても負けても失うものが大きいので、今は内戦で国土を疲弊させるよりも諸藩が団結して新しい国づくりに邁進すべきではないかと説き、
会津をはじめとする旧幕府軍との和睦説得のための猶予を願い出る。

河井継之助は自ら作り上げた越後長岡藩の軍事力を背景に
新政府軍と会津をはじめとする旧幕府軍の間に立とうとした。
和睦を仲介しようとしたのです。

だからこその「武装中立」の考えでした。

岩村はその嘆願書に目も通さず、すがる継之助を振り払います。
30分で交渉は決裂します。

河井はその日。
交渉が決裂してからも
深夜まで何度も取次ぎを請います。

ここで河井を捕らえず、そのまま帰してしまったために
北越戦争の凄惨な戦いが始まります。

新政府軍の責任者・のちの日本陸軍の重鎮となる山県有朋はそのとき
柏崎にいました。
河井を捕らえよ!という伝令を出しますが
間に合いませんでした。

長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式加盟し
加盟から一週間。継之助は動いていません。
彼は本当は戦争は望んでいなかったと思います。

5月10日 継之助。新政府軍が抑えていた榎峠を奇襲
5月19日 新政府軍の奇襲攻撃の前に長岡城落城
落城時、長岡には11万両(現在価値220億円)のお金があった。
5月24日 今町の激闘(見附市で激闘)
7月25日 長岡藩軍長岡城奪還
継之助が左足に銃撃を受けて重傷
7月29日 長岡城陥落
8月16日 会津藩の塩沢村で河井継之助死去

北越戦争を描いた絵
継之助が自らも操縦したというガトリング砲。東洋に3砲しかない。そのうち2砲を長岡藩が購入。

今町の戦い 新政府軍が、
戦いになっても守るから大丈夫だと町民や農民の避難を止め、
多くの庶民が戦闘に巻き込まれる
6月2日、長岡藩は2隊に分かれて今町に侵攻。
隠れている敵を追い出すため、町には火が放たれ、ほぼ全域が焼け落ちる。
その後の復興には20年かかったと言われています。
7月24日、継之助率いる同盟軍は、長岡城奪還のため、夜間に、
約4キロの広大な湿地帯の中を進み、25日早朝に対岸に上陸して一気に長岡城まで進撃。
八丁沖渡河作戦。奇襲。予想もつかない作戦に不意を突かれ、
新政府軍は逃走。長岡城は2カ月ぶりに奪還。


7月25日長岡城を奪還するも
継之助の負傷に衝撃を受けた長岡藩兵は、
急激に士気が下がり、7月29日長岡藩は再び陥落。

新政府軍は北陸道での思わぬ苦戦に対して
時勢を背景に、大量の兵士を次々と送り込み、
越後平野を覆い尽くすほどの勢いになります。

長岡藩兵の必死の攻防も虚しく会津へ退却を余儀されます。

8月5日、会津領只見村に入ります。
このとき、継之助に最後まで付き従っていた外山修三(寅太)とやましゅうぞうに言います。
「寅や。このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はもう、おれが死ねば最後よ」
このとき、継之助は親交のあった福沢諭吉に外山修三(寅太) が学べるように紹介状を書きます。

8月12日、同藩領塩沢村に入る。
藩公の世子のフランス亡命、長岡藩が今後とる道を細かく指示します。
13日、14日も終日談笑し、まわりもわずかな望みをつなぎます。
しかし、継之助は松蔵を呼び、かってない優しさで礼を言った。
「ながなが、ありがたかったでや」松蔵はおどろき平伏します。
「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積みあげよ」と命じます。
松蔵はおどろき、泣きながら希みはお待ちくだされとわめきます。
継之助はするどく一喝します。
「主命である。おれがここで見ている」
松蔵は継之助の監視のもとに棺をつくります。
「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継之助は一度だけ、声をかけます」。そのあと目を据え、やがて自分を焼くであろう闇の中の火を見つめます。
8月16日午後8時死去します。
侍従の松蔵に死んだ後の自分の体を焼く、火をおこさせ、棺をつくらせた。
最期はその日を見つめて、棺を作る松蔵を見つめて死ぬ。
自分の死に対する準備をし、客観的に死を見つめていました。

紹介状をもらった外山脩造(寅太)は
この翌年・1869年に28歳で河井の添え書きを持って慶應義塾に入塾します。
アサヒビールの創業に関わります。
阪神電鉄初代社長となり、関西財界の重鎮となります。
阪神タイガーズのタイガースの所以は外山寅太からと言われています。

アサヒビールのホームページより
戦前まで甲子園球場前に建てられていた外山修三の銅像

会津に通じる八十里峠を越える途中。
継之助は歌を残しています。

八十里こし抜け武士の越す峠

自らを笑う歌です。

官軍に刃向かって“国賊”となった長岡藩は、
石高を一気に2万4000石に削られるなど、
徹底した意趣返しを受けます。

長岡藩は実収は5分の1となり、藩内は焼け野原。
その一方で藩は、
戦死者の遺族、戦傷者とその家族の面倒もみなければなりませんでした。

河井継之助はその死後も何度も墓石が倒されるなど、
長岡の人から恨まれたと言います。

北越戦争後、長岡の責任者となったのは大参事・小林虎三郎

小林虎三郎銅像

長岡藩にあって、官軍との開戦を反対していたのが、 小林虎三郎
それが抜擢の理由と言われています。
佐久間象山(しょうざん)の塾に学ぶと、
長州藩の吉田松陰(寅次郎)と共に、門下の“二虎”と呼ばれた人物です。

藩士の家族は白米はむろんのこと、
三度のおかゆにすら満足にありつけず、
その惨状を見かねた支藩の三根山藩から、
米百俵が送られてきた。
「これで一息つける」
と喜んだ藩士たちに、虎三郎はこの百俵で学校を建てる、と宣言し
反対意見を押し切り学校を建設します。

この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。
国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、
ことごとく人にある。
この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。
この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、
百万俵になるか、はかりしれないものがある。
いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。
その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。
あたらしい日本はうまれないぞ。…

米百俵の売却資金で「国漢学校(こっかんがっこう)」が創設されます。

国漢学校には国学・漢学に加えて洋学・兵学・医学の五局(学部)が
設置され、士族(武士)だけでなく入学試験に合格すれば庶民でも学べる、
先進的な教育機関として長岡藩の文明開化に貢献します。

後身は、旧制長岡中学校となり
明治憲法の起草に尽力した法学博士の渡邊廉吉、
日本人初の解剖学教授で人類学者の小金井良精、
東京帝国大学総長の小野塚喜平次、
司法大臣の小原直、
明治の代表的な洋画家の小山正太郎、
外交官で漢学者の掘口九萬一とその子で詩人の堀口大学、
連合艦隊司令長官の山本五十六
がいます。

今回、河井継之助についていろいろと調べて
発表して感じたことは

継之助の生き方は目指していたもの。
徳川譜代長岡藩士として生きた。
サムライとして生きた。

ただ継之助の思いは叶わなかった。
継之助が長岡に生まれたことが災いとなった。

ただ継之助の人生は私たちに一つの物語、
男の生きざまを強烈に示してくれる。

彼の思考と行動は現代の私たちにも強烈なメッセージを残してくれています。

継之助は自分の評価は百年の後世にまかせるとしていたと思います。

後世の人が継之助のことを調べれば、継之助が目指したものはわかる。

自分の行動もわかる。

後世の我々が継之助の生涯をどう感じるか?

己の信じた道を歩んだ。
その道を歩む姿、目指したものは素晴らしいと思います。
成功、失敗では言い表せないその生きる道。
その思いと行動に感動を覚えました。

勉強会に参加してくださった皆さん。
今回は6人限定で開催しました。
満席になり、キャンセル待ちの方もおられました。
主催者として嬉しい限りです。
私の発表は50分で終わり、その後、70分。
参加者の方と意見交換をしました。

河井継之助の学んでいた陽明学では「良知」を致す。
という考えがあります。
良知とは人が本来備えている善悪是非を判断できる能力です。
これは皆さんが生まれ持って備えているものです。
日常生活の中で心を磨くことによって
良知は発揮されます。
心を磨くために
小さな善を積み重ねること。
自分の心を内観すること。
日常生活をしっかり生きることによって
良知は発揮されます。
誠を尽くすということです。

昨年、陽明学の研究家・林田明大先生(はやしだあきお)の
名古屋で行われた勉強会に参加させていただき、
陽明学の教えに触れることができ、とても勉強になりました。

ただ良知はともすると
「一人よがり」になってしまいます。
いろんな人と意見を交換し合い
いろんな人の「良知」の交換により
さらに良知は発揮されると思うのです。

歴史を学んで心を磨く会の意義はそこにあります。

今回は語り合った後、4人の参加者で
近くの餃子の王将でビールと餃子を食べました。
いろいろ参加者の旗同士で話せることがこの会の良いところです。

次回は2月23日(日)
第2回歴史を学んで心を磨く会

【テーマ】新一万円札・渋沢栄一【進行役】宮﨑裕己彦
【内容】渋沢栄一の生涯を学びます。
渋沢栄一は「士魂商才」を唱えた「「日本近代化の父」です。
渋沢栄一が学んだ「論語」や「陽明学」「孔孟の教え」。
今の日本の現状を考えると、江戸時代から学ばれた「論語」や「陽明学」「孔孟の教え」が希薄化してしまっている現状があるように思えてなりません。ピケティが言う「1%の富裕層に対する、残りの99%」。資本主義では格差が増大し、今後も不平等が拡大するという考えもあります。富の寡占化は渋沢栄一が唱えた「儒教資本主義」とは大きく異なります。富の寡占化は果たして長続きするでしょうか?今後どうなるか?これは歴史がすでに証明しているように思います。だからこそ渋沢栄一が学んだ「論語」や「陽明学」「孔孟の教え」。
そして代表著書である「論語と算盤」を学ぶことはこれからの時代を読み解く素晴らしい機会になると思います。
1時間の発表の後は、1時間語り合います。歴史を学んで、心を磨き、日常生活に活かしていきましょう。歴史でつながり語り合う仲間を募集しています。会のあとは昼ごはんを時間がある方は食べにいきましょう。餃子の王将、大陸系中華、ネパール料理、インド料理、イタリアン。いずれか相談して決めましょう。


https://www.facebook.com/events/1159600384394601/

河井継之助の人生を描いた司馬遼太郎の小説


峠(上) (新潮文庫)


峠(中) (新潮文庫)


峠(下) (新潮文庫)





新装版・真説「陽明学」入門 (ワニプラス)

コメント