僕は幕末が好きです。
幕末といえば、薩長土肥。
幕末の志士と人は言う。
薩長土肥の幕末の志士を中心として
時代は動いていく。
行動。
行動が時代を動かしたのだ。
幕末。
日本は気づいていた。
幕府も
薩長土肥の討幕した藩も
時代を見ていた。
時代を理解していた。
客観的な「日本」を理解していたのだ。
このままでは「日本」はヤバいと感じていたのだ。
ここではまず、徳川幕府がいかに幕末の時代を認識していたか?
そうしてなぜ、内戦がおこらず、
明治維新が実現できたかを
書いていきたい。
最後の将軍・徳川慶喜。
大政奉還を考えた・坂本龍馬。
徳川慶喜は明治維新の最大の功労者と言えます。
江戸の町が
薩長土肥を中心とする明治新政府軍と
幕府軍の内戦によって
戦場と化していたら
今の日本の姿はありません。
徳川慶喜は幕末の時代の中心でした。
彼の功績は「大政奉還」にあります。
この大政奉還はどういう意味か?
どういうことをしたのか?
大政とは「政治」を表す言葉です。
「立法・行政・司法」のすべてです。
江戸幕府が朝廷に「政治の権限」を返した。
もともと朝廷がもっていた「政治を行う権限」を朝廷に返した。
ことが「大政奉還」です。
1867年10月の話です。
大政奉還の目的は
「内戦」を避けることにあったのです!
内戦を避けて
徳川独裁体制から
朝廷と諸国の大名によって政治を行おう!とするものでした。
徳川慶喜が「大政奉還」を行った理由は
薩摩藩・長州藩から「討幕」の大義を奪うことにありました。
徳川家は日本では最大の兵力を持っていました。
朝廷と諸国の大名による「公議体制」で政治を動かしていけば
最大の兵力を持っている「徳川家」の主権は揺るがない。
と考えていました。
徳川慶喜は「世界の中の日本」の観点から
「内戦」を最も恐れていました・
幕府を倒そうとする薩摩藩・長州藩は
武力で討幕することを目指していました。
なぜ徳川慶喜は内戦を恐れたのか?
それには欧米列強の諸国から日本が侵略されるという危機感を抱いていたからです。
この「大政奉還」の案を考えたのが
「坂本龍馬」です。
坂本龍馬の考えたこの「大政奉還」の案を土佐藩の藩主である
山内容堂に当時・土佐藩の政治の中枢にいた後藤象二郎を通して
提案します。
坂本龍馬という人物には
「私心」がなかったのです。
「理想」を追っていたのです。
国内で争っていたら
外国に侵略されてしまう。
だから薩摩藩と長州藩は手を握るべきだ。という
坂本龍馬の提案により結ばれたのが
「薩長同盟」。
そしてさらに
「大政奉還」。
これは坂本龍馬の「脳」で作られたものが
実際に「実現」した。ということ。
1867年10月の大政奉還の1か月後
坂本龍馬は33歳の若さで暗殺されてしまいます。
坂本龍馬の言葉に
「 日本を今一度せんたくいたし申候」という言葉があります。
一介の武士に過ぎなかった坂本龍馬の「脳」で作り上げられた提案が
日本を動かした。
その提案には「私心」がなく、「天下国家」のこと。
つまり当時の「日本」にとって最高の戦略であったのです。
今の日本には
立場でものを考える
「既得権益」で世の中が動かされているような気がします。
それよりも
「天下国家」を考え
「日本」のことを考え
ひいては
「世界」のことを考える
そういう視点で世界をみたから
明治維新が実現されたのです。
第二次世界大戦で敗れるまで
日本が日本であることができたのです。
坂本龍馬の高い視点。
既得権益にとらわれない
高い視座が明治維新が成功した大きな要因です。
私心にとらわれない高い視点。
たくさんの人を動かし、その想いが勝海舟、西郷隆盛にも伝わり
江戸城の無血開城につながり
明治維新が実現された。
内戦がおこっていたら、明治維新は実現されていません。
大政奉還を考えた坂本龍馬。
その考えを受け入れた、徳川慶喜。
二人がいたから実現できた明治維新。
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