- 1837年大塩平八郎の乱
- 大塩平八郎はなぜ乱を起こしたのか?
- どんな人物だったのか?
大塩平八郎(1793~1837年)は元大阪東町奉行所の元与力。
今でいうと引退した元警察官です。
現役時代はかなり活躍した人のようです。
汚職の摘発やキリシタンの摘発に現役時代は活躍。
やりすぎる性格で幕府の首脳の不正まで捜査し、
これ以上捜査をしないようにストップをかけられます。
大塩を評価していた上司が転勤になると大塩は引退します。
大塩をよく思わない者も多かったと思われます。
代々続く与力だった大塩平八郎。
彼は正義感の塊だったのです。
庶民からの人気は絶大でした。
大塩平八郎は陽明学を勉強していました。
陽明学では「人は生まれながらに善悪・是非を誤らない正しい知恵を持っている」と説いている学問です。
この正しい知恵を「良知(りょうち)」と言います。
この良知を発揮するには
「私欲」にとらわれないこと。
日々、小善を積むこと。
日常生活の中で心を磨くこととされています。
大事と小事を分けない。
毎日の生活をしっかり生きて、曇らない心を持つ。
そうすることで良知が発揮されます。
大塩は現役時代から「洗心洞」という私塾を開いていました。
そこで陽明学を教えていました。
毎日夕方に寝て、2時に起床。
武道の稽古をして、体をキレイにして、朝食。
朝5時から塾で講義をして、出勤。
という生活をしています。
大塩平八郎は本を書いています。
その本の中で
「善は口先で言うだけでなく、善を実行しなければならない」と書いています。
時に1837年。
世は天保の大飢饉。
凶作で米がとれず、飢え死にする人々が多く出ます。
そんな中、大阪の奉行所は大阪の米を江戸に送ります。
金持ちの商人は米を買い占め値を吊り上げます。
大塩は乱を決行する前日、
江戸幕府の6人の老中あてに、大坂町奉行の不正、役人の汚職を訴える
手紙を書き送っています。
公然と賄賂をとる政治が横行している。
世間の誰もが知っていることなのに
老中たちは知りながら何も言わない。
その結果、天下に害が及ぶことになった。
また大塩は大坂で行われていた不法無尽(金貸し業)を捜査したとき
この事実を告発した。
無尽を行っていた大名たちの中には幕閣の要人もいて
その証拠を隠蔽し、捜査を中断させました。
大塩はその隠ぺいの事実を追求した。
この告発の中には水野忠邦、大久保忠真の他、
当時の老中二人も含まれていました。
大塩の告発状が入った書簡を江戸に運んでいた飛脚は
その中に金品が入っていると思い、箱根の山中で書簡を開封。
金品がないとわかると書簡ごと道中に放り捨ててしまった。
それを拾ったものが、代官・江川英龍に届けられ
事の重大性に気づいて箱根関に通報した。
さらに今度は幕府から朝廷にたいして大塩追跡の状況を知らせた文書が
同じ箱根山で同様の被害に遭い、事情を知った関白・鷹司政通が武家伝奏・
徳大寺実堅を通して京都所司代に抗議したことが
同じ武家伝奏である日野資愛の日記に記されています。
この現状を大塩は見過ごせず
幕府批判の檄文を飛ばし、「救民」の旗印を掲げて、
自宅に火を放ち、豪商が集まる船場に行き、一時大塩の軍勢は300人ほどになります。そこで米を買い占めていた豪商の家を襲います。
幕府軍と市街戦となりますが、半日で鎮圧。
大阪の街の五分の一を焼いてしまったと言います。
元与力で陽明学者として名前が知られていた大塩平八郎の乱は
日本に衝撃を与えます。
幕府の直轄地である大阪で反乱がおこる。
島原の乱以来の200年ぶりの反乱。
この反乱の動きは広がりを見せます。
新潟や広島などでも「大塩残党」を名乗る反乱が起こります。
幕府のチカラが弱まっていることを象徴する出来事でした。
世の中の腐敗を許せなかった大塩平八郎。
彼の目的は庶民の救済でした。
飢えた人が町中にいるのに
米を買い占める商人。
大阪で飢えている人がいるのに江戸へ米を送る役人。
救済策を訴えたが聞き入れられず、
もはや彼の中では「正義のための戦」を起こすしかなかったのでしょう。
正義感が強く、自分の思いに忠実に生き、命を懸けて
世の中を正そうとしたその大塩の志は尊敬に値すると思います。
コメント