吉田松陰。29歳の若さで亡くなったが、その思いは日本を変えた。

  • 吉田松陰はどんな人物だったのか?
  • 何をしたのか?
  • なぜ若くして死んだのか?
  • 吉田松陰の影響はどんなものだったのか?
吉田松陰

吉田松陰は1830年に生まれました。
1859年に亡くなりました。
吉田松陰は幕末の長州藩に生まれました。
1856年から2年間。
松下村塾という私塾で講義をしました。
そこで学んだ者に
久坂玄瑞
高杉晋作
伊藤博文
山県有朋
品川弥二郎
山田顕義
がいます。

吉田松陰という人物はどんな人物だったのか?
どのような思想を持ち、そんな人で、どのように行動し
どんな影響を与えた人なのか?

吉田松陰は長州藩の下級藩士・杉百合之助の次男として生まれます。
父・百合之助も勉強好きだったため、
幼いころから農作業をしながらも、「論語」、「孟子」などの中国の古典を学びます。
5歳のときに叔父の吉田家に養子に行きます。
養子先の吉田家は長州藩の兵学師範でした。
養子先の父・吉田大助が急死したため
6歳で家督を継ぎます。

ここで吉田松陰の教育係となったのが
玉木文之進です。

玉木文之進は吉田松陰の叔父にあたる人物です。
この玉木文之進の教育がかなり厳しいものでした。

吉田松陰が講義中に蚊に刺されて頬をかいたとき
公のために学んでいるのに
頬がかゆいという私ごとを優先するとは何事か!
と叱っています。
「かゆみは私。かくことは私の満足。それを許せば長じて、世の中に出たときに
私利私欲をはかる者になる。」

なんと、筋の通った意見でしょう。
今の現代の教育にはない骨太な教えです。
私欲は心を曇らせる・陽明学の教えですね。

松陰は9歳で長州藩の藩校である明倫館の兵学師範に就任します。
11歳のときに藩主・毛利敬親の前で講義をしてます。

松陰はその行為の内容、姿はすばらしく、わかりやすく、堂々としたもので
藩主も驚いたと言います。

厳しい教育に見事にこたえ、6歳で家督を継いだ重圧にも負けず、
育っていく吉田松陰の姿を想像します。

1849年19歳のとき
長州藩の藩校である明倫館の兵学教授になります。

九州へ遊学にも行きます。
ここで平戸に行き、陽明学者・葉山佐内と親交を結びます。
約2か月間、葉山佐内の家に通い
80冊ほどの本を読み、書き写します。
ここで葉山佐内は嫌な顔一つせず
松陰に学ばせます。
松陰が帰るときにはいつも玄関先まで出て
松陰が見えなくなるまで、見届けたと言います。
一人の名もなき青年を毎回、見届ける葉山佐内の優しいまなざし。

松陰は感動します。


このときの感動が松下村塾で生徒に対し、愛情あふれる優しい松陰を作ったのではないでしょうか?
一人一人の性格を理解し、長所を見抜いて伸ばしていく。
葉山佐内の愛のある姿勢が松陰の生徒への姿勢の範となりました。

葉山佐内(1796-1859年)は佐藤一斎(1772-1859年)の弟子です。
佐藤一斎は江戸幕府直轄の学問所・昌平坂学問所の儒官(総長)であった人です。
若いころから陽明学を学び、朱子学と陽明学を対立するものと考えず、
その折衷の中に孔孟の精神を求めた人です。
佐藤一斎の弟子に佐久間象山、横井小楠がいます。
佐藤一斎の著書に「言志四録」(げんししろく)があります。
西郷隆盛の愛読書としても知られています。
その内容は
「少年のときに学んでおけば、壮年になってから役に立ち、何事かを為ことができる。壮年のときに学んでおけば、老年になっても気力が衰えることはない。老年になっても学んでおけば、ますます見識も高くなり、社会に役立つこととなり、死んでからもその名は残る 」

「立派な人になろうとの強い志を立てて、それを達成しようとするなら、薪を運び、水を運んでも学びに通じる、ましてや、書物を読み、事の道理を知ろうと、それに集中するなら、目的を達成しないほうがおかしい。だが、志が立っていなければ、終日読書しても無駄に終わることになる。だから、立派な人になるには、なによりも志を確立することが大切である。 」

「人を見るときは、その人の優れたところを見るべきで、短所を見てはいけない。短所を見れば、自分が優れているので、おごりの心が生じ、自分のためにならない。だが、長所を見れば、相手が自分より優れていることがわかり、これに啓発され、励まされるから、自分の利益となる。 」

学びの大切さ。学びはチカラである。

志があれば何をしても学ぶことが得きる。日常生活からも学ぶことができる。

人の長所を見つめ、自分の成長のために学ぶことができれば
生活の中で不快になることもなくなり、人生を豊かにすることができる。

という内容があります。
まさに指導者のためのバイブルです。

熊本にも行き、そこで
宮部鼎蔵(みやべていぞう)に出会います。
そこで松陰と宮部鼎蔵と意気投合します。
肥後熊本藩の兵学師範の宮部鼎蔵 。
松陰も長州藩の兵学師範でしたから
同じ山鹿流兵法(やまがりゅうひょうほう)を極めたもの同士。
ときに宮部鼎蔵30歳。
吉田松陰20歳。
二人は親友と言える間柄になります。

さらにその2年後
1851年 吉田松陰は江戸に遊学に行きます。
ここでだれに何を学んだのか?
九州遊学で情報を得るには江戸が一番と知った松陰は
江戸で佐久間象山に入門します。

佐久間象山に学んだ人に
勝海舟、宮部鼎蔵、橋本佐内、河井継之助がいます。

佐久間象山は幕末を代表する天才と言われています。
洋学者として有名ですが、剣術の達人で、儒学、和歌、絵画、砲術
オランダ語にも精通していました。
何でもできる天才であったのです。
ただ性格が尊大すぎて、とてもエラそうな態度で人と接していたため
評価を落としてしまった面があります。

佐久間象山は免許皆伝や秘術といったものを嫌った合理的な精神の持ち主だったので、独学でもどんどん学習を進めていく努力家でもありました。

佐久間象山

江戸に遊学に出ていた松陰は
東北旅行を計画します。

当時、東北にはロシア船が出没していました。
親友の宮部鼎蔵を誘って、東北旅行に行くことを決めました。

ここで一つ問題が発生します。
当時は人の移動が厳しく制限されていた時代。
旅行をするのにも藩の許可が必要で関所で「通行手形」を見せる必要がありました。
ただこの通行手形の発行に時間がかかり
宮部鼎蔵との約束の日に間に合いませんでした。
でもそこで松陰はこの東北旅行の約束の日をずらさず
「通行手形」の発行を待たずに、東北旅行に行きます。

法律を犯してまで「友達との約束」を優先したのです。
佐久間象山から「狂人」と評されたという吉田松陰。
自らを「狂人」に仕立てていた吉田松陰。
彼の生きるスピード感をとても感じます。
そのスピード感の底には「日本への危機感」があったことは間違いないです。


この東北旅行のために松陰は「脱藩」してしまうのです。

この罪で松陰は家禄没収。
でも10年間の遊学の許可も藩から得ることができました。
自由に各国に遊学に行ってもいいという許可を与えた長州藩も懐が広いです。

このあと松陰は
アメリカへの留学を計画します。
次から次に自分の思いを行動に移していく姿が半端ないです。

1953年松陰は江戸に二度目の遊学をします。
このときアメリカのペリー提督率いる黒船艦隊を松陰は見るのです。
浦賀に黒船を見に行った松陰は衝撃を受けます。
幕府の国防に対する不備を痛烈に感じます。
松陰が感じたのは危機感です。
日本を守るためには西洋列強国に行こう!
西洋に学びに行こう!
と松陰は決心します。

ペリー来航から1か月後
ロシアのプチャーチンの艦隊が長崎にやってきます。
松陰はロシアへの密航を計画し、長崎に行きますが
松陰がついたときには、ロシア艦隊は去っていました。

1854年1月ペリーが再来航します。
このときまた松陰は密航計画を計画します。
松陰の密航計画を知った長州藩足軽の金子重之助と師弟関係をむすび
一緒に実行します。

ペリーの船に乗り込むためにいろいろ手を尽くしますが
すべて失敗し、最後には下田で小舟に乗り、ペリーの船まで小舟をこぎよせ
乗艦に成功。
渡航の希望を必死で伝えるが、拒絶されてしまいます。

この手紙の内容は
「日本では外国に出ることは禁じられているが、私たちは世界を見たい。密航が知られたら殺される。慈悲の心で乗船させてほしい!」というものでした。

松陰と金子は自首し、江戸の牢屋に入れられ、その後、長州藩萩の
松蔭は士分が入る野山獄。
金子は岩倉獄に入ります。
金子は岩倉獄の劣悪な環境の中で25歳で病死します。
松蔭は深く悲しみます。

吉田松陰と金子重之助の像(萩市)

野山獄で何と松陰は「孟子」の講義を始めます。

野山獄中の囚人たちは松陰の人格に感銘を受け、24歳の松陰を尊師と呼んだと言われています。
どんな内容だったのか?
松蔭は諸外国の脅威に対し、
天下の人々の「至誠」だけが状況転換を可能にすると説きます。
「至誠」とは人民への至誠。「人心が正しくなければ、洪水を治めたり、外国からの脅威を駆逐したり、外国を征服したりすることはできない」

学問をすることは単に知識を身に着けるだけではない
そこから学び、考え、人間を磨く。ことだと説きます。

その方法として中国の古典の
「四書五経」を読むことを薦めています。

また松陰は野山獄で600冊以上の本を読んでいます。

野山獄に投獄されてから1年2か月後
実家の杉家に松陰は戻ります。
「幽囚」の身としてです。

自宅に設けられた幽囚室で
親族・近所の人を相手に「孟子」の講義をします。
この講義が萩城下で評判となります。
松蔭の教育係であった玉木文之進が開いた「松下村塾」。
当時、久保五郎左衛門が引き継いでいた。
この久保五郎左衛門も松陰の孟子講義を聴くようになると
自然に「松下村塾」の主は吉田松陰となりました。

ここに有名な吉田松陰の「松下村塾」が誕生するのです。

評判になった孟子講義により
長州藩全体から若者が集まるようになりました。
松下村塾は武士や農民・町民の身分にかかわらず
塾生を受け入れました。

吉田松陰が松下村塾で教えた期間は
1856年8月~1858年12月
わずか2年4か月ほど。
松蔭は自ら講義を行い、自分の考えを塾生に説きます。
孟子
山鹿流兵法
地理学
経済
芸術
時事
など講義の内容は多岐にわたりました。

基本的に時間の決まりはなく
塾生が一人でも来れば
事前と授業が始まるスタイルで

講義スタイルよりも
塾生とともに円になって
ディスカッション形式で意見を言い合いながら
進めてく授業が多かったとのこと。

松蔭は学生とともに学ぶというスタイルを大切にしました。
子弟共学です。

入門希望者には「あなたは何を私に教えることができますか?」と質問していたと言います。

また室内だけでなく、水泳・登山・農作業も塾生とともに行い
心身共に鍛える場でありました。
塾生それぞれの個性をいかして自己を確立させる。
自分は必ずしも完全ではないから、自分の足らないところを他者から学び取る。
松蔭の目から塾性の短所長所を見て、短所を補い合える塾生をコンビにする。

高杉晋作・久坂玄瑞をコンビにしました。
高杉晋作は見識は優れているが学問はまだ浅い。
久坂玄瑞は学問は深く学んでいるが見識が浅く、世間知らずなところがありました。
この二人をコンビにし、お互いを高めあいました。高杉は久坂の影響を受けて、
かなり勉強をするようになったそうです。

学問は世の中の役に立たなければ何の意味もないと考えていた松陰。

塾生の人格を尊重し、持っているものを輝かせるヒントを与え、肩を押す。
縦の関係でなく、横の関係で塾生に接する。
このことに塾生は感動しました。
松蔭の姿勢に愛を感じたのです。
九州遊学で葉山佐内のもとで学んだとき、葉山から得た師匠からの愛。
その自分が受けて愛がその根底にあることを感じます。

松陰は塾生と行動を共にすることで感化させる先生でした。
言葉だけでなく、ともに時を過ごし、その中で塾生に気づかせることにより
人を育てました。

松下村塾全景

松蔭は塾生を教える一方で自らも行動を続け、
幕府の老中・ 間部詮勝が調停を厳しく取り締まろうという動きに憤慨し
間部詮勝暗殺計画を立てます。
朝廷の許可を得ず日米和親条約を結んだ幕府の態度。
幕府に任せておけば、この危機を乗り越えることはできない。

松蔭は塾生にも声をかけ、門下生17名の血盟を得ます。
藩の重役・周布政之介に
老中・ 間部詮勝の暗殺計画書を提出します。
幕府を倒そうという計画です。

藩の重役も困り果て、自宅での「厳囚処分」を下します。
家から出るな!という命令です。
それでも塾生が集まって危険ということになり
松下村塾は閉鎖。再び松陰は野山獄に入れられます。

その後、江戸に送られ、
幕府の取り調べの中で聞かれてもいないのに
老中・ 間部詮勝の暗殺を計画を告白。
死罪が決定し、打ち首となります。

1859年11月21日
吉田松陰。
最後の日。
辞世の句は
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

自分の身はこの江戸で処刑されて朽ち果てるが
その魂は残していきます。

留魂録という
処刑の前日、前々日に書かれた遺書が残っています。
その一節に

吾れ行年三十。一事成ること無くして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たれば惜しむべきに似たり。然れども義卿の身をもって云へば、是れまた秀実の時なり。

自分は30歳で死ぬこととなる。
まだ何事も成し遂げていないから惜しいと思う人もいるかもしれない。
ただ自分としては花は咲き、実を結んでいると思う。


そう。
この吉田松陰の熱い思いが
長州藩の明治維新を成し遂げる大きな原動力になったのです。

短い生涯ですが
行動に継ぐ行動を続け、潔く生き、愛深く、たくさんの人物を育てた
その生涯。
松陰の思いを継いだ
久坂玄瑞
高杉晋作
伊藤博文
山県有朋
品川弥二郎
山田顕義 らにより
長州藩は藩をあげて、討幕運動に進み、明治維新を遂げる大きなチカラに
なりました。

美しき松陰の魂に強く惹かれます。

吉田松陰という人物を調べていくことで
佐藤一斎という人物の存在を知りました。
日本の江戸時代は人々の精神性が高かった時代です。
幕府直轄の学問所 ・昌平坂学問所の儒官(総長)であった人です。
若いころから陽明学を学び、朱子学と陽明学を対立するものと考えず、
その折衷の中に孔孟の精神を求めた佐藤一斎。
日本が欧米に侵略されず、独立を守れたその強さは精神性にありました。

四書五経。
中国の長い歴史から作られた儒教の教科書。
そこから学び、独自の解釈を加え、陽明学と合わせ教えを説いた
佐藤一斎。

その教えを学ぶことが
私の心を鍛え、今までの人生で足りなかったものを学ぶことができる
教えであると今回、吉田松陰のことを調べることで思いました。

佐藤一斎から葉山佐内へ、葉山佐内から吉田松陰へ
そしてその思いは松下村塾で育った弟子たちに引き継がれたのです。

言志四録を読んで、これから学んでいきます。

佐藤一斎


[現代語抄訳]言志四録


吉田松陰遺書



吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)



野山獄の講義集


[新釈]講孟余話 吉田松陰、かく語りき


[新釈]講孟余話 吉田松陰、かく語りき



吉田松陰・高杉晋作を描いた司馬遼太郎の小説


新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

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