行動と思考は一致しているのが当たり前。河井継之助

僕は高校生の時に

司馬遼太郎の小説「峠」を読んだ。

幕末の越後長岡藩の家老であった「河井継之助」の生涯を描いた小説だ。

彼はあまり知られた人物ではないが

知る人ぞ知る人物だ。

先日、「今でしょ!」の林修先生が

テレビでご自身の尊敬する人物として河井継之助について熱く語って、びっくりした。

僕の主催する朝活ネットワーク名古屋でお話しいただいた

東山動物園のグッズを企画販売している株式会社おもむきラボの代表取締役社長の平口栄基さんも

尊敬する人物として河井継之助について朝活でも語っていました。

僕も河井継之助が大好きなのです。

なぜかというと・・・

自分に正直に生きた人だと言えるからです。

自分の人生でもってそれを証明した人です。

命は「道具」である。

「志」を表現する「道具」である。

生まれが越後長岡藩という8万石くらいのそれほど大きくない藩に生まれた河合は

そこに自分の人生を定めた。

越後長岡藩の家老になることができる家柄ではないのに

激動の時世を読んで

「自分が越後長岡藩の家老になる」と決めてしまった。

江戸や岡山の高梁市(備中松山藩)に学びに行って

自分を磨き上げた。

特に備中松山藩の藩政改革を断行し

借金まみれだった藩を立て直した山田方谷からは相当学ぶところがあり

山田方谷をものすごく尊敬していた。

遊びも大好きで

江戸にいたときは

よく吉原に通っていた。

これだけは男の「本能」として抑えられず

とても「女の人」が好きだったそうだ。

でも自分の「志」は幕末の越後長岡藩をどう運営するかということであり

吉原は好きだがはまらないように自分を戒めていた。

幕末、家柄から出ていた家老には藩の運営をすることができず

河井は認められ、自分が思っていたように「家老」に出世する。

そうして藩政改革を断行し

借金まみれだった越後長岡藩を豊かな藩に変えていく。

軍備増強し

当時、東洋に3台しかなかった超高級な武器「ガトリング砲」まで買ってしまう。

これは機関銃だ。

当時としては最新鋭の武器。

河井としてはこの幕末の時世の中

彼の想いとして

自分が育て上げた長岡藩を

幕府にも

新政府にも

属さない

ヨーロッパのスイスにならって

「中立」の立場をとろうとした。

「軍備」を増強して、藩を豊かにしたのも

すべてはそのためだ。

彼にとって「越後長岡藩」は育て上げた芸術作品であり

命であった。

でもそれは認められず

時勢はどちらに味方するか選ばなければならない状況であった。

新政府軍に「中立」の立場を伝えようと懇願したが

認められず

幕末の戊辰戦争でもっとも激烈だったと言われる

「北越戦争」を起こしてしまう。

越後長岡藩の家老が普通の門閥出身の家老ならば

恐らく新政府軍について

長岡は安泰だったのかもしれない。

河井が長岡に生まれたがために長岡は焼け野原になり

死後、河井は長岡の人に恨まれたそうだ。

北越戦争で散々新政府軍を苦しめたけど

敗れ、戦死してしまう。

死ぬとき、もう死ぬと分かった河合は

自ら部下に火を燃やさせて

もう自分は死ぬからこの火で自分を焼いてくれと頼んだ。

死ぬことを理解し、自分の死体を焼く火まで準備したところがいかにも河合らしい。

司馬遼太郎は河井継之助を通じて

「武士」というものを描きたかったそうだ。

自分の生まれた立場で「人生」を生き

人生の「美しさ」を描きたかった。

武士の人生の「美しさ」を描きたかった。

徹頭徹尾。

越後長岡藩をどうするか。

について考え続けた河井継之助。

ただ越後長岡藩という藩が彼には小さすぎた。

藩の実力以上の芝居をしてしまうことになり結局滅亡する。

ただ彼がやろうとした「志」は美しい。

男としてあこがれる生き方だなあ~と思うのです。

ただ河井継之助の奥さんは河合の死後、

大変だったそうです。

こういう人の奥さんは大変ですね。

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