佐賀城で脱藩の罪での
「判決」を待つ江藤。
弟と二人で部屋に通され判決を待つ。
判決を言い渡す家老が来るまで、時間があった。
部屋には江藤兄弟二人だけ
判決を書いた紙がたたんでおいてあった。
江藤は待っている間に弟に
「なんて書いてあるか見てこい。」と命じた。
なぜかというともし死罪と書いてあれば
「俺は逃げる!」
まだ死にたくない。
生きていればやれることがあるし、死ぬために脱藩したわけではない
自分の能力を認めさせるために京に行き、つぶさに京の情勢を観察し
「京都見聞」を書きあげたのだ。
弟は見に行った。
判決文は「永蟄居」(無期自宅謹慎)であった。
英明で知られた佐賀藩藩主・鍋島閑叟は江藤を殺さなかった。
閑叟は江藤の書いた「京都見聞」を熟読し、
その情報分析の鋭さに驚き、ほぼこの京都見聞を暗記するくらい読んでいた。
「これほどの者を殺すわけにはいかない」
それから5年間。貧しい家に籠らざるえなくなった。
この5年間江藤一家の貧しさは相当なものだったそうだ。
幕末の情勢がさらに緊迫した1868年。
江藤は「永蟄居」を解かれ
大隈重信らとともに佐賀藩の代表として京都に派遣される。
江藤は脱藩という賭けに出て、能力が認められ、佐賀藩の代表の座を射止めたのだ。
江藤は「巖頭の悍馬」という言葉が好きであった。
男子たるものは気の荒い馬に乗って、崖の上に立つべきだ。
そこから大きく飛躍するか
崖から落ちるかどちらかだというのだ。
命を懸けて勝負に出なければならないときがある。
結果。江藤は大きく飛躍できたのだ。
その後は明治政府で取り立てられ、
司法卿として日本の司法の礎を築く。
明治政府にはこれからの日本を作り上げる能力のある人少なかった。
江藤は日本の「法律や司法」を整備することにとても興味があり、国づくりに大活躍した。
ただ、汚職や利権に厳しく、私腹を肥やす明治政府の主流派の薩摩と長州の重鎮と対立し
征韓論で敗れ、結局、明治政府から追い出されてしまう。
その後、よせばいいのに佐賀に帰り、不平士族に祭り上げられ、「佐賀の乱」をおこして
鎮圧され、
大久保利通によって「死刑」を宣告され、
みずから法律で禁じた「さらし首」にされてしまうという生涯。
大久保はその時に限り「さらし首」を復活させた。
よっぽど江藤が憎かったらしい。
能力が高かったけれど、そのために周りと軋轢があり、
保身に興味はなく、情報分析は鋭いのに
自分が生き残るために生き延びるためにどうすべきか、どう動くべきかと客観的に判断する能力に欠けていたため
佐賀に帰れば、代表者に祭り上げられることが予想されているのに帰ってしまった。
みんな止めたのに帰ってしまった。
江藤が明治政府で活躍したのはわずか6年!
ただこの6年で日本の司法制度の礎を築くという大仕事をやってのけた。
40歳という若さで死んだが、密度の濃い生き方をして、
自分のやりたいことをドンドン実行した男として
僕は大好きです。
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